morisns.png

森の仲間コミュニティは、森の365日のファンの皆さんが、会員だけが集える場所で、安心してコミュニケーションをとっていただけるように用意したサイトです。カメラや自然や宮崎学が好きな方はどうぞご参加ください。gakuの裏日記も読めます!

パリ・カルティエ現代美術財団での写真展の様子です 詳しくはこちら

gakuの今日のヒトコマ

ツキノワグマがやってくるから「クマクール」


20170727 【写真家は見たシリーズ 17 】

4年ほど眠らせておいた「クマクール」のひとつをテスト再会してみた。
やっぱり、面白い。
イノシシが確実に増えていることは知っていたが、巨大オスが何頭もいるのには驚いた。
もちろん、ツキノワグマ…も。

自然界は着実に動いている。
それを目撃するのも、写真家の仕事…か。



ブログの続きを読む

ツキノワグマ事件簿

「黙して語らぬツキノワグマを探る…」、には

201307162118-2-DSC_9226

昨夕、かねてから知り合いの全国紙科学部の記者から電話があった。

記者「宮崎さん、ツキノワグマはかなり多く生息していそうですね!」

gaku『いまごろそんなこと言っているんかい?
オイラは、ずっと一貫して、たくさんふつうにいる野生動物だと言ってきているのに。
写真家は、現場に立ってナンボだから、そんなこと他の野生動物と比べてみても分かること。』

記者「でもねぇー、研究者はどうしても“保護”したいから少なく見積もっているところがある。」

gaku『いや、そうじゃあないよ。
技術と自信と行動力と身銭を切らないから、「保護」といっていれば立場を守れると思っているだけさ。
とにかく、現場を分かってないんだよ、ね。
ツキノワグマを語るのに「生態学」だけしか頭にないから何も分からないんだよ。
野生動物の盛衰を語るにも、「現代社会学」「生理生態学」「死の生態学」さらには「時間軸」に加えた「人間心理学」…
そのどれもが必要で、複眼発想しながら総合判断すればツキノワグマをあぶり出すヒントはいくらでもある。
で、そこには自然を総合的に見つめて行動していく「センス」という直感力も必要になってくるんだけれど、ね。
センスさえあれば、研究者であれ保護を訴えている専門家だって、もっともっと新しい言葉で自然を語ることができるものなんだけれど。
なのに、相変わらずのドングリだとかハチミツのセオリーどおりの言葉しかない、じゃん。
写真だってこれほどカメラがすばらしく進歩してきているのだから、プロアマ問わず、刺激的で新しいものがどんどん世にでてきてもいいハズだと思う、よ。
発信しなければならない人がちゃんとしてないから、「獣害」といわれるサルやイノシシ、ニホンジカの増加にしても30年も遅れてしまい対策が手遅れとなっているんじゃあないのか、な?
ツキノワグマの今後がどうなるかって、社会学から追っていってもオイラにはすでに答えが見えているよ。
100年後の日本の山野がどうなっているのか、そのときツキノワグマがどのようなポジションにあるのか。
そのくらいの視野で、いま現在のツキノワグマを語らなければならないんだけど、ね。
マスコミの仕事も重大です、ぞ。』

記者「 ・・・・・・・・ 」

あはは、生意気ぐらいがちょうどいい。
このくらいはっきり言っても、社会は「怨嗟」としか捉えないからオイラはわが道を行くだけだけれど。
記者は、オイラの未発表の写真を借りたがっていたが、まだその時期ではないので丁寧でもないけれど言葉を濁した、のだった。
20100914DSC_0091

写真上
山ガール、森ガールも増えてきて、ほんと心配してしまうくらいに山野に無防備で入る人が多くなってきた。
この女性も単独でこの森に入ってきたが、何が目的だったのだろう、か?
そこを歩くクマの親子だけれど、母親は「初産」らしく小さい。
初産の母グマの攻撃性は、いかに。

写真下
「森の手入れが行き届かないからクマを里に呼び寄せるのだ」
専門家のそんな進言もあって、行政は通学路や人家付近の木をどんどん切って明るくしたのだけれど。
そこを歩くクマにとっては「そんなの関係ねぇーや」、と闊歩中。
やっぱり、人間のやることは「気休め」、だけだな。

ブログの続きを読む

森の動物日記

ヒトの傍らで – シナントロープから見た世界

長野県諏訪湖にハクチョウが初めて飛来したのは1970年代中頃のことでした。
以来、地元の有志によって餌づけが行われてハクチョウはどんどん増えていきました。
これを美談として当時は新聞やテレビなどでも取り上げられていましたが、ハクチョウを見ていると、どうも餌をもらえる環境をしたたかに計算して、やってきているだけのように感じました。
そしてハクチョウたちは、近所の田んぼなどにも出かけていって落ち穂ひろいしながらお米を食べていたのですから、人間の生活をありがたく利用していたのだと思います。
この後日本に「鳥インフルエンザ」が流行してきて、ハクチョウに餌をやることについての風当たりも強くなり、こんどは人間の側が「餌付けは良くない」と言ったり、野生の生き物とこういう形で触れ合うことを拒否するようになりました。
こうした互いの心理状態が面白くて、自然保護の概念もどんどん変化しているんだなと、ボクは思うようになりました。

自然は、美しく素晴らしく優しく見守りつづけるもの。それが“自然保護”なのだ、と考えている人たちは少なくないと思います。
ところが、木を切ったり、土砂崩れがあったり、山中に別荘を建てたり、橋をつくったり、自然破壊といわれるような人間の行為を実は歓迎している植物や生物がいます。

例えば、大昔には森林だった山野を人間は長い時間をかけて開墾して田んぼや畑にしてきました。
元は樹木がうっそうと生い茂っていたところを、田んぼや畑にすれば陽当たりもよくなり、風通しもよくなって、そのような環境によろこび適応していく生物を地球の“造化の神様”はつくり育てています。

例えば、スズメやカラスやツバメなどは、人間の生活圏に寄り添って生きています。
みんなに親しまれている美しいカワセミだって、洪水や土砂崩れが起きて、切り岸となったその場所に巣をつくり子育てをします。
ノウサギは山林を伐採したり、山野の近くの田んぼや畑のような環境が、生きていく上ではとても重要な場所です。
人間が自然を撹乱することが、生物たちに力を与えて繁栄につながることがあるのです。


(Photo:河川敷の切り岸は、カワセミのマンションに好適。右下は土の中。使わなくなった巣の断面を見てみました。)

こうしたことを「シナントロープ」とギリシア語では言ってきました。
この言葉はすでにローマ時代から使われてきており、何世紀にもわたって繁栄と盛衰を繰り返しながら、動物はヒトと共生してきました。

確かに木を切れば大喜びする生物と、切られることによって大きなダメージを受ける生物たちがいます。
そして人間からは、そのバランス感覚が大切なのではないかと思うようになってきました。
木を一本切っただけでそれを「自然破壊」だと非難してしまうのではなくて、その木がそれまで何をしてきたのか、切られることによって環境がどう変わっていくのか、そこまで考えながら自然を見つめてみることがイマの私たち人類には必要なことではないのか、と感じます。
このようなテーマで、今年は東京と大阪の「ニコンサロン」で「ヒトの傍らで – シナントロープから見た世界」と題して写真展をやります。>展覧会の詳細はこちらの案内をご覧ください

(Photo:東京都下の新興住宅街の田んぼで野生のキツネが普通に暮らしています。)

(Photo:トラクターが田んぼを耕せば、カエルなどの餌が土中から出てくるからシラサギたちが餌を求めてあつまってきます。)

(Photo:田んぼには落ち穂などの餌があるから、ナベヅルも安心して越冬できます。)

(Photo:コンクリート水路のマンホールが土砂で詰まったところを、タヌキがマンションにしていました。)

(Photo:三面張りのコンクリート水路。そこに落ちたネズミは這い上がれないので、ノラネコが餌場として利用していました。)

(Photo:商品価値のなくなったミカンの捨て場。イノシシがよろこび「ミカン定食」を食べていました。)

 

ブログの続きを読む

森のライブカメラ